Trip to the Paradise Islands: Puert Galera


ナグラ・ビーチの由来

    ルソン島の西南部に位置する周囲300kmほどの、フィリピンで7番目に大きな島、ミンドロ島は、太平洋戦争の時に、米軍がレイテの次に上陸した地点である。当時通信兵だった大岡昇平氏の「俘虜記」や「ミンドロ島ふたたび」に記されている島である。その北部に、日本の旅行ガイドブックなどではそれほど頁が割かれていないが、ヨーロッパ人にはダイビングのメッカとしてよく知られたプエルト・ガレーラというところがある。そこにナグラ・ビーチは存在する。下記のサイトによると静岡県浜松の出身の名倉英二郎さんが、20年ほど前にこの地に移住し、土地を購入して、ダイビング客のための施設を作ったということである。名倉氏は2年前になくなったということであるが、次のサイトには比較的詳しい説明があるので参照されたい。

http://puertogalerawedding.blog95.fc2.com/blog-entry-21.html また名倉さんについては、http://www.ido21.com/ido21/report/htm/matsuda/philippine.htmに生前のインタビューがある。

   このような場所なら、我々日本人にとって安心できるところなのではないだろうか。また、我々の一行の中に、かってその地を訪れ、名倉さんと話をしたことがあるという人物も居たので、先ずはそこに行って見ようということになったのである。 (この記事は、MSNのブログSpacesからWPへ移動した際に失われた写真を追加して、再構成したものである。)

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Trip to the Paradise Islands: Puert Galera」への1件のフィードバック

  1. 名倉さんのインタビュー再録

    フィリピン人になった名倉さんの物語

     PRA(PLRAの前身のフィリピン退職者庁)局長のパコ女史に、フィリピンで最も老後を楽しんでいる日本人退職者を紹介して欲しいと頼んで紹介されたのが「ナグラ」氏という日本人男性がパコ前局長の出身地であるミンドロ島にいると聞いたのでさっそく出かけた。
     ミンドロ島はルソン島に隣接している。まずマニラから南方へバスで1時間半ほど走り、バタンガスでフェリーに乗り換えさらに1時間半ほどでミンドロ島のプエルト・ガレラという小さな港町に着く。フェリーが島に接近しても家すら見えない寂しい所で、こんなところにナグラさんという日本人が住んでいるのかと心配になった。

     プエルト・ガレラに着いて、道路脇にある小さなお店で、「ミスター・ナグラ、ナグラ」と尋ねると、その店で働いていた少女が「私はナグラのトモダチだから案内する」という。その女の子の後について、波打ち際まで生える木々の枝をかき分け5分ほど歩くと、ローマ字で「ナグラ・ビーチ・リゾート」という看板が目に入った。

     女の子にお礼を言って、このリゾートに砂浜側から入っていくとちょうど、日本人らしき男性がリゾートの母屋らしき建物から出てきた。この人が名倉英次郎氏で、1929年3月16日生まれ。威勢良く、前記の小松崎さん同様に70代の年はまったく感じさせない。

     「PRAのパコ局長の紹介で来られたのですか。へえー。パコさんは私のことを覚えていてくれたのですか。私はPRAビザを持っている何千人の一人に過ぎないのに…。私が退職者特別居住ビザを申請したのは60歳頃でまだこの資格を得た人は少なかったです。パコさんが私のことを覚えていて下さるなんて感激です。私は自分で自分をすごい奴だと思っているのですが、ビザ取得のときに二度お会いしたパコさんの前では、私は直立不動でした。彼女は頭が切れ、何もかも見透かされているという感じでした。フィリピンにはあんなすごい女性がいっぱいいるのです」

     名倉さんの実家は、かつて浜松市三方原で茶の製造販売を営んでいた。地元の興誠中学から予科練生となって、神奈川県の真鶴岬で砲台を作っている時、名倉さんは終戦を迎えた。

     米軍が進駐し、真鶴半島の砲台を見に来るというので、他の同期生達は米兵を迎えるという指示通り出かけていったが、「ちょっと前まで敵だった米兵の歓迎なんかできるか」と、名倉さんは参加しなかった。

     父親が裕福だったので、「勉強ができない私をカネの力で立教大学に進ませてくれた」が、大学入学直後の昭和27年に家が没落した。北海道と東北市場向けに茶の販売で儲けていたが、輸出に手を出して失敗した。そこで食えなくなった名倉さんは、職を変えながら食いつないだ。とくに日本各地でのダム建設現場を渡り歩き、最後の現場は黒部ダムだった。この仕事を終えて東京に出た名倉さんは、ハイヤー運転手していたが、ひょんなきっかけから後に大臣にもなる代議士の秘書になった。名倉さんはその代議士の名前だけは明かしてくれないが、尊敬していたこの代議士の2世議員とは大喧嘩して秘書を辞め、70年代後半から東京で個人タクシーを営業した。

     この頃から名倉さんのフィリピン通いが始まった。

     「〝飲む・打つ・買う〟で、やらないのは酒だけです。まったく酒は飲めません。お恥ずかしいことですが、個人タクシーをやっていた頃の私の趣味は、海外の女性と遊ぶことでした。台湾、韓国、タイなどアジアだけでなく、欧米やアフリカへも行きました。だけどフィリピンには行く気がしませんでした。フィリピンではいい思いはできないと感じていたのです。でもある日、突然、フィリピン行きが決まりました。申し込んでいた北欧旅行の参加者が集まらずにキャンセルになったことがあったのですが、その旅行社がお詫びだとフィリピン・ツアーに無料で招待してくれたのです」

     こうして名倉さんにとって初めてのフィリピン体験はルソン島北西にあるハンドレッドアイランドというビーチだった。その海で生まれて初めてシュノーケルをつけて潜った名倉さんは、その瞬間、目の前に広がる珊瑚礁に魅せられた。

     「理屈じゃないです。こんなきれいなものがこの世にあるのかって。それは大きな感動でしたよ。そのフィリピン行き以来、私のパスポートに押される出入国のハンコは、フィリピンばかり。そして私はフィリピンのあちこちの海に通って珊瑚礁を鑑賞しました。当時のフィリピンの治安は決して良くなかったので、有り金すべてをコンドームに入れ、それを海水パンツの中にしのばせて潜りました。普通の風船も試しましたが、空気を抜いたつもりでも5メートルも潜ると風船は破裂しました。コンドームは強いものですなあ」

    フィリピンをマスター
     フィリピンの海に潜って珊瑚を鑑賞する旅を繰り返しているうちに、「いつまでも東京で個人タクシーをやっていては人生の無駄だ」と感じるようになった。
     「私の場合は客との喧嘩が絶えませんでした。お客様は神様だとあがめられ、陸運局の介入は激しくなるばかり。もう個人タクシーなんか続けてられないという気持ちになりました。そしていろいろ規則がうるさい日本とはバイバイしようと考えはじめました。しかし長年連れ添った家内と別れるつもりはなく、『おい、一緒にフィリピンに行って住もうよ』と何度も誘いました。しかし家内はフィリピンだけは絶対に嫌だと言い張るのです。しかたなく、私は一人でフィリピンに移住することにしました。家内に慰謝料として、財産の90%をあげると言ったところ、喜ばれましてねえ…」

     マニラにリゾート開発の会社を設立、いろいろ出かけた末にプエルト・ガレラを選定、建設を開始した。

     しかし「名倉は日本人の金持ちに違いない」と見られだまされ続けた名倉さんは、「正義を貫くためには暴力が欠かせない」と考えるようになった。

     「私は日本刀やピストルなどの武器をそろえました。だましたフィリピン人を日本刀で追い掛け回したこともあります。ある時には、だました奴を小船に連れ込んで、沖に出てから大きな石とロープを見せ、海に沈めてやると脅かしました。そいつは恐怖におののき失禁して謝まっていました。私は、こんな男を殺(や)る価値なんかないと考えて許してあげました」

     「だました人は悪い、だまされた人は気の毒だなんて、のんきなのは、世界でも日本だけですよ。フィリピンではだました奴が利口で、だまされた奴はバカ。今では島の人たちは、いつもニコニコしているナグラだけど、怒らせたら恐いぞと思っているはずです。地元のボス、小さな子どもたちまでが、ナグラ、ナグラと、敬称なしで呼んでくれるようになりました。フィリピンでは、親しい間では呼び捨てがあたりまえですから…」

     だが現地の人間関係をここまで持ってくるまで、人の問題で悩むことが多かった。地元で見つけた感じが良い若い女性をリゾートに採用、いろいろ教えこみ、やっと客の前に出せると判断したとたん、同島の他の外国人リゾートオーナーがスカウトしてしまうケースも相次いだ。

     名倉さんにとってのショックは、辞めていったこの女の子はが、辞めた後でも平然として名倉さんのリゾートに遊びにきて、辞めたことを一切わびることもなく、あっけらかんとしていたからだった。

     「まったく理解できませんでした。こんな私の精神状態を救って欲しいと、フィリピンに持ってきた般若心経を唱えてみましたが、救われませんでした。しかし私を救ってくれた言葉は、意外にも取り寄せた日本語の聖書の中にありました」

     「フィリピンで事業が成功するかどうかは、押し寄せてくる試練に耐えることができるかどうかにかかっています。フィリピンに来た外国人に共通した試練なんかありません。しかもその試練はハンパなものではない」

     精神的に行き詰まった名倉さんは、原動機付き自転車でリゾートから10分ほど離れたドラガンと呼ばれるビーチにでかけて考えこんでいた。「この国はいったいどうなってんだとかね。そんなある日、そのビーチに行って見ると、マリア像が建っていたのです。初めてこのビーチでマリア像を見てから、どういうわけだかこの海岸に出かける回数はぐんと減りました。きっと、私はフィリピンをマスターしてきたからだと思います」

     東京の喧騒を離れ10数年。大自然の中に身を置く名倉さんは、初めての感覚に遭遇するようになった。「目の前に広がっているこの海の水が塩辛い、といったあたりまえのことにも感動するのです。海の波だってすごい。地球をかみ砕いていくのですから。自然の摂理をいつも感じます。このへんでは長男の誕生日などに犬を食べます。しかしその犬は骨と毛を除くすべてを食べてしまい、後には何も残りません。最初はなんて残酷な、と思いましたが、今ではそれが犬に対する本当の供養だと理解できるようになりました。犬をよく見てください。吠えても決して噛みついたりしません。日本では田舎でも犬を鎖につないでいますが、それでは犬に失礼というものです」

     名倉さんはリゾート建設中に知り合ったフィリピン人女性と再婚した。リゾートに近い人口数万のプエルト・ガレラのホテルに泊り込んで建設を進めていた時、ウイリン(WELYN)さんで、ホテルの支配人的な仕事をまかされていた女性だった。

     「英語もタガログ語もできない私にとってパートナーが必要でした。当時、彼女はホテルで働きながら学校の先生になるとか、奨学金を得て米国に行けるというチャンスに恵まれていました。悩んだ末に彼女は私のリゾートで働くことを決心してくれたのです。私たちはプエルト・ガレラでかなり盛大な結婚式を挙げました」

     リゾート完成後の名倉さんは、「闘鶏に夢中で、仕事しなくなった」とウイリンさんは筆者に嘆いていたが、夫に文句は一切言っていないともいう。

     タガログ語でサボンと呼ばれるフィリピン式闘鶏。ナイフを鶏の足に縛り付けてどちらかが死ぬまで戦わせる壮絶なものである。ウイリンさんは1957年にレイテ島生まれ、30歳ほど年長にあたる名倉さんは、「彼女をリンと呼んでいます。私の日本の籍に入れました。経営を彼女に一任しており、私は髪結いの亭主みたいなものです」とサボンに熱中中。

     「自然の風を楽しんでもらいたい。冷房の家に住む人は健康を考えない人だとしか思えない」という方針で冷房付きの部屋はない。また、客が移動電話を持ち込むケースは多いが、ビジネスを持ち込んで欲しくないと、電話も敷設していない。

     この19室しかないナグラ・ビーチ・リゾートに150人も宿泊する日もある。

     ルソン島とミンドロ島を結ぶフェリーの乗客も、ほとんどがフィリピン人で、ジープニーを借り切ってのフィリピン人の団体客が船の中から大騒ぎしていた。定員が二人であっても、リゾートにやってくるフィリピン人は5人、10人と1つの部屋に泊まる。そこで、外国人の場合は1人か2人で泊まるので1泊580ペソだが、フィリピン人の場合は1泊800とか1,000ペソになり、その価格は奥さんのウイリンさんがケースバイケースで決める。

     ナグラ・ビーチ・リゾートの存在を口コミで知って来る日本人もいるが、遊ぶ場所も乏しいことから日本人にはそれほど人気はない。しかし、駐車場がリゾートの中心部にあることが気に入って宿泊するフィリピン人が多い。部屋の前に愛用車があり、荷物の積み下ろしにも便利で、夜間のいたずらや盗難から車を守れるからだ。

     バブル崩壊からアジア各地で建設事業の中断すら目立っているが、プエルト・ガレラのビーチは現在も建設ラッシュである。人気上昇中のプエルト・ガレラでは、新たに土地を取得しようと考えても、地主が売り惜しみしている。1平方メートル300ペソで買った名倉さんの土地も、これまでに1,500ペソへと上がっている。ナグラ・ビーチ・リゾートは海岸に面しているが、国道からリゾートに入れるように、幅2メートル数十メートルの私道を作った。

     「フィリピンで土地を買う場合、国道に面している土地を買うなら問題ありませんが、国道から離れた土地は、進入路を確保しておかなければあとで必ずモメます。地権者が法外な通行料を請求してくるからです。できれば、5メートル幅の道路を自分で作り、その後に国に寄付するのがベストです。メンテナンスは寄付した後は国がやってくれるからです。毎年の税も免除されます。私のリゾートの場合は、資金不足から2メートル幅で国道まで土地を買いました」など、リゾート作りのノウハウを披露する。

    (アジアジャーナリスト・ 松田 健)
    URL http://www.ne.jp/asahi/asia/halohalo/
    E-mail mazda@k.email.ne.jp

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