レイテ紀行・レイテに戦跡を訪ねて


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レイテはかっての大戦において、日米決戦の舞台となった島である。太平洋戦争も後半戦に入ると戦局は反転し、ミッドウエー海戦以降攻守処を変えることになった。「アイ・シャル・リターン」” と退却時に大見得を切ったマッカーサー大将(当時)のフィリピン奪還の意気込みは強く、ハワイで今後の戦略についてトップ会談を開いたのだが、ハルゼー提督、ミニッツ提督、およびルーズベルト大統領も彼の意見に賛同せざるを得なかったという。日本軍も「比島」または「台湾」が決戦場となると予想し、「捷一号(比島)」および「捷二号(台湾)」の二つの作戦を練り上げていたという。(大岡昇平・「レイテ戦記」)
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昭和19年10月20日、マッカーサーを総大将とする米軍がレイテ湾に侵入し、レイテ島東岸タクロバン近郊に上陸するのであるが、当時この地を守っていた第16師団は長期持久戦の構えで、縦深陣地を構築していたため、米軍は比較的容易に上陸し、進攻して北岸(カリガラ湾)まで達してしまう。この時、やっと捷一号“決戦”命令が発令され、第一師団約1万名の将兵がタクロバンの反対側、レイテ島西岸のオルモックに上陸し、北進してカリガラ湾を望むリモン峠で米軍と遭遇し激戦が展開され、先遣の第16師団、決戦第一陣の第1師団、後続の第26師団も殆ど全滅したという。


ここに示すいくつかの「記念碑」の写真は、これらの激戦地のものである。

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レイテ紀行・レイテに戦跡を訪ねて」への3件のフィードバック

  1. リロアンからお抱え運転手つき車で120キロほど離れた北側のオルモックまでドライブしたことがあります。
    予想通りリロアンからオルモックに至る国道は整備されてなくて、到着するまで長い時間がかかりました。
    オルモックはみるからにスペイン風の街でホテルもスペイン風でした。
    そこで一泊して夕食、ビールを楽しみました。
    オルモックに入ると道路は見違えるように整備されていました。

  2. どうもフィリピンの道路はゴツゴツして、車の乗り心地が悪いが、タクロバン辺りの運転手に言わせると、「道路の舗装が悪いところの首長が良い人物」で、「道路の舗装の良い所の首長は悪い奴」だという。その理由は道路を舗装させて、多大の賄賂をとっているのだという。タクロバンからオルモックまで、戦跡巡礼に出かけたが、悪い市長より、良い市長の方が多いようだった。

    • オルモック周辺の道路は素晴らしかったですが、これも賄賂の成果^^?
      リロアンからオルモックまで走ったのは、自分の目でレイテ島の道路の状況を確認したかったからです。
      当時ある建設コンサルタントに出向しており、そのときに会社を辞めて転職するように勧められました。
      魅力的な仕事で乗りかけましたが、最後の一線で決断が出来ませんでした。
      勇気がなかったのでしょうね。
      決断して居れば今頃はマニラ暮らしで、レイテ島などの道路や橋梁工事を担当したのかも知れません。
      結局タイに移り住み、そこで良き家族を持つことが出来ました。
      運命の女神のいたずらでしょう^^。

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