我々は、1日200L以上もの水を何に使っているのだろうか。飲料水ならば2Lもあれば十分だろう。洗濯、風呂、シャワー、トイレが多量の水の使用目的だ。昔、日本では風呂の水は焚き沸かして何回も使ったのだが、最近は洋式風呂の様に、各人流してしまうようだ。こうなると200Lのリミットを簡単に越えてしまうだろう。フィリピンでは日本式風呂は大変な贅沢な物の一つである。自分の家を持っている中流程度の家庭でも、風呂はおろかシャワーの出口もない。シャワーやトイレではバケツ1杯の水で済ますのである。ここカオハガンでは入浴は海に入って身体を擦ることで済ませ、トイレは無いという。女は海岸の縁で、男は海の中に入って用を足すのだという。潮の流れを見極め、潮の流れに向かって排泄するのがコツで、逆にすると大変なことになるらしい(前掲書「近い何もなくて・・」66頁)。したがって、排泄用などには貴重な雨水は使わないのだそうだ。崎山氏は、トイレはやはり必要と思われたので、竹で囲われたトイレを作ってみたが不評だったという。大きく、広い自然の中で、ゆっくりと用を足すのが気持ちよいのだろう。
こうしてみると、日本では当たり前のように考えられている、高い山があり、冬には雪が積もるとか、川が流れているなどということは、大きな財産を持っているとことになるいうことが、良くわかる。物質文明の行き着く先は、天国ではなく、地獄ではないかと思われる。
これが天国に近い島の生活である。お金に代表される、「物」はないが、豊かな時間があるのが特長のようだ。文明社会には、時間もお金もなく、殺伐とした人々の暮らしがある。東京にあるのは、出社時間に遅れそうになった人々が、満員電車の中で、押し合いへし合いしながらイライラしている生活がある。働けど働けど、楽にも成らず、時間のゆとりもない文明社会の生活は、やはりミヒャエル・エンデが作品「モモ」(1973)の中で言うように、「時間窃盗団」に時間を「詐取」された結果なのかもしれない。そのようなゆとりのない生活が、人の心を蝕み、地獄を現出させているのかもしれない。
最後に、崎山氏の著作より抜粋した、カオハガンの生活=天国に近い生活、をまとめてみよう。
天国の入口にある島
南方の人々は 穏やかな気候と 豊かな環境に恵まれて
その日暮らしができるため 将来に備えて行動することが あまりない
今 少し我慢して 将来に備えようということを しない
島では一日が何となく 過ぎていく
島のすべての人には 重要な予定はない
出会いの中で 一日が過ぎていく
気分が悪かったら 椰子酒を飲み ギターを弾き 歌う
魚を獲ったり 家の修理や お土産売の仕事もあるが
必ず今しなければならないと 思っているわけではない
また明日があるのだ
自然に身をゆだねて 太陽が沈むと 一日が終わり
太陽が昇ると また一日が始まる
時は 過ぎ去っていくのではなく 繰り返しているのだ
焦ることなく ゆったりと 今を生きる
自然のリズムに沿って 逆らわずに生きると
心が休まる